今回大川小学校を訪れ
その後いくつかの資料や出版されている書籍を読んでみた
いろいろな情報を忘れないように備忘録としてここに残す。
これからも随時更新していきたいと思います
大川小学校付近の地形
河口から直線で約3.7km
北上川を遡ると4.2km
大川小学校の海抜は1.2m

写真は「震災遺構大川小学校」に展示されている
津波で折れた緯度・経度・海抜を示す石柱
堤防の高さ:北上川の本堤防5.1m、支流富士川の堤防3.1m
グラウンドおよび釜谷集落から川面は見えない
校舎2階からは見えるようだ
北上川の川幅約50m
石巻津波の歴史
宮城県沖地震:2005/8/16 11:46 宮城県川崎町最大震度6弱 志津川町(現南三陸町志津川)津波0.4m
チリ沖地震:2010/2/27日3:34 石巻市鮎川 2月28日 08:37 津波 0.78m
当日のキーパーソン
大川小学校教員
- 校長 57歳 当日午後は娘の卒業式のため不在、生存
- 教頭 52歳 当日の最高責任者、故人
- 教師A:教務主任 57歳 当日現地にいて唯一生存した教員。生存
- 教師B:6年生担当 故人
- 1から5年生の担任教員(若手4人、中堅1人、ベテラン1人) 全員故人
- 特別支援学級教員1名 故人
- 用務係 当日不在、生存
- 事務主事 故人
大川小学校生徒とその家族
- 津波に巻き込まれたが生存した4名の子供たち
- お迎えで助かった30名の子供とその親
釜谷地区
- 釜谷区長 故人
- 住民A:15時30分あたりで釜谷交流会館横から裏山に上って助かる
- 裏山や車で逃げることのできた釜谷地区住人
- 自動車整備工場の一家
釜谷地区以外の人たち
- スクールバスの運転手 故人
- 石巻市役所河北総合支所職員 一部生存
時系列
| 2011年3月9日 11:45 | 三陸沖を震源とするマグニチュード7.3 震度5弱の地震が発生 津波は石巻市鮎川で0.5mほど |
| 2011年3月11日 14:46 | 宮城県牡鹿半島の東南東沖130km マグニチュード9.0 震度 6強 地震発生 |
| 14:46 | 生徒、教室の机に隠れるなどする |
| 14:49 | 6 mの大津波警報発令 |
| 14:50頃 | 校庭に移動し、そのまま待機(一次避難) ※教師Aは生徒に山へ避難すると声掛けしていた。 |
| 14:52 | 防災行政無線のサイレンと 6mの津波情報が伝えられた。 学校側ではラジオ放送でも津波情報を確認した ※教師A、生存者生徒たちの証言あり |
| 長面方面へ向かうためスクールバス 方向転換し待機 | |
| 15:10頃 | 父兄、釜谷地区住民より避難促される |
| 15:14 | グラウンドには焚火の用意がされる たき火のための缶は少なくとも二つ用意されていた。 ※当日の気温1~2度 |
| 15:14 | ラジオ10mの津波警報に変更される。 泣きながら裏山へ避難を訴える教師もいた |
| 車で迎えに来た親に引き渡しが行われる(約20家族) ※報告書 引き渡しの対応に追われていたわけではない(人数的にも多くない) しかし過去に引き渡し訓練を1度も行っていない ※引き渡した子供は全員生存 | |
| 15:20頃 | 消防車「高台避難」呼び掛け 大川小学校前を通過 |
| 15:23頃 | 北上川河口付近、「石巻市北上町十三浜」で津波の第1波目撃される |
| 15:25~28 | 石巻市河北総合支所の広報車 大津波警報アナウンス 2度目 「追波湾の松林を津波が越えた」と「高台避難」 |
| 15:30~35 | 教師・生徒「三角地帯」への避難開始 |
| 15:30 | 支流の富士川に大量の水が流れ込む(1波か2波) 釜谷住民A、裏山へ逃げようと走る |
| 15:35~37 | 津波が大川小学校を襲う |
| 校舎と校庭を何度も往復していた教師Aと3年生男子裏山へ逃げる ※教師Aは校舎2階から津波を目撃した可能性もある | |
| 5年生男児津波に飲み込まれながらも助かり裏山に避難 途中同じ5年生男児を助ける 1年生生徒も助かり裏山へ上る | |
| 日没までに教師Aと3年生男児、裏山を超えて 自動車整備工場にたどり着く | |
| 15人程の住民、生徒3人裏山で夜を過ごす ※内女性1人亡くなる |
避難場所(方法)
1.大川小学校:2011年3月11日時点で釜谷地区の避難場所は大川小学校であった
ハザードマップでも浸水区域には入っておらず
そのため、釜谷地区住民も大川小学校や隣の釜谷交流会館に避難してきた
2.三角地帯:標高5~6m
釜谷区長の助言により15:30~35程から避難開始したが失敗
北上川と並行に走っている支流富士川付近の少しだけ開けた土地である。
県道238号釜谷大須雄勝線と県道30号河北桃生線がぶつかる場所であり
そのため三角の土地となっていることから
三角地帯と呼ばれている

3.裏山:学校グラウンドより徒歩1分、傾斜も緩やか
課外授業でシイタケ栽培を行なっていた為
殆どの教師・生徒も知っている場所である。
3月9日の前震の際も校長、教頭、主任の3人で
今後については裏山を避難場所にする検討がされたが
しかし決定することもなく
うやむやのまま話し合いは終わってしまったとのこと

今回の訪問で私の撮影した写真
待機していたグラウンドから裏山へはゆっくり歩いて1~2分

この写真は東日本大震災アーカイブ宮城からのものだが
日付は2011年3月19日のものである
裏山の木が伐採されているあたりには
うっすら雪が積もっていたが
斜面を登るには問題ない程度と裁判でも証明されている
4.バットの森:小学校からバットの森の入り口まで距離750m
徒歩10分ほど
野球のバットの素材となるアオダモの木を植樹した場所で
小学生高学年生はこの植樹に参加していたため
教師・生徒とも場所は把握していた。
そこから山に登る ※車でも行けるとの情報あり
三角地帯を経由し山側の分岐した道に進み
自動車整備工場横の入り口から登れる山
学校の裏山とも繋がっている


Googleストリートビューで確認しても
確かに車で入っていく姿が見られる
5.釜谷のトンネル:標高は20メートルほど
場所は入釜谷生活センターより先に位置する
車で避難した人たちの殆どが、この場所を目指したとのこと
震災後一時的に避難所にもなった。

車では3分だが、1.8kmの距離
この道沿いにある千葉自動車整備工場も津波被害は無かったが、
工場の道を挟んだ向かい側の土地から北上川までの土地は全滅だったことを考えると
離れた場所に徒歩での移動は難しいと感じる。
避難方法:スクールバス
大川小学校までの路線バスが廃止となったため
通学にはスクールバスが運用されていた(50人乗り)
当日も下校生徒のために
玄関前でいつでも発車できるように持機していたが
”学校の指示がないと子供たちを乗せて避難できない”と
車載無線で同僚にメッセージを残していた
この運転手も津波の犠牲となってしまった
大川地区には大川保育所があり
15時過ぎに保育所のスクールバスが大川小学校に立ち寄っていたと記録があり
バスは一時的にだが、2台待機していた時間帯があるようだ。
保育所の園児は全員助かっている。
当日の問題点
1.トップリーダーの不在とその資質
校長:57歳、当日午後は不在、教頭先生が責任者となった
校長に関しては、次項4のマニュアルの作成をせず放置
被害を大きくしてしまった。
教頭先生:52歳
いろいろな書籍を読むとずいぶん腰の低い人だったようだ
次項2. 当初は釜谷区長と避難先について言い争いのような形になっていたようだが
地域の人たちと揉めることを避けたのか
最終的には釜谷区長の言うことを丸呑みし
思考停止状態で50分間グラウンドに待機し続けてしまった
そして「三角地帯」への避難途中に津波の被害となり
残念ながら教頭自身も津波の被害で亡くなってしまった。
2.地元住民のリーダー釜谷区長との関係性
教師Aや他の教師、生徒含め裏山へ避難を進言していたが
この地域のリーダーである釜谷区長が
歴史上この地区に津波は来ない(来たことがない)ので
避難する必要はないと強く言われた
教頭先生からも裏山への避難の打診があったが
それを強く否定し5、6m高台の「三角地帯」への避難を薦めたとのこと
最終的にはご自身も津波で亡くなられてしまった
この地域の区長は基本的には自治会内住民の選挙で選ばれるらしいいが
この地域で代々続いている家の者が有資格者で
ほぼ持ち回りで選ばれるとのこと
どの田舎でも同じだが小学校は地域と密接にかかわっているので
区長の意見はなかなか無視できなかったようだ。
3.ハザードマップ
2009年策定されたハザードマップでは
北上川の対岸や大川小学校側の北上川と支流富士川の堤防は
1m~2mの浸水は予想されるが
大川小および釜谷交流会館は津波の被害を受けない
避難先に指定されていたため
釜谷住民も大川小学校および釜谷交流会館に留まってしまった
4.地域の避難場所が大川小学校になっていたこと
公立学校が避難場所になっているのはどの地域でもよくあることが
生徒の避難と地域住民の避難が一緒くたになってしまったことに問題がある
一方は体の動く子供、若者、一方は体の動かない老人たち
避難場所も避難時間の想定がそもそも変わってきてしまう
教頭先生と地域のリーダーと意見が一致しなく
小学生だけの避難が迅速にできなくなったこと
そして地域の住民の避難も教員たちが負わされたことである。
5.大川小学校災害対策マニュアルの不備
この項は校長の責任となるが
平成19年度の災害対応マニュアルでは、
三次避難場所(マニュアル中の表現では「第二次避難」)は、
「近隣の空き地・公園」とされていたがこれは地震を想定したもの
平成22年度に初めてマニュアルのタイトルに”津波”と入れ
本文に「津波の発生の有無を確認し第2次避難場所に移動する」という一文が加えられた程度で
実際は避難場所の検討すらされていなかった
3.11 避難経路の不自然さ

| ① | 15:30位、1列になり学校校庭からに移動を始める |
| ② | 校門からではなく、自転車置き場フェンスの入り口(90cm)から 釜谷交流会館側の小路に出る |
| ③ | 釜谷交流会館駐車場を横切り 山と住宅地の間の小路を進む |
| ④ | 住宅の横の小路を通り県道に向かう |
| ⑤ | 県道に向かう途中で津波が押し寄せたためUターン |
| ⑥ | 15:35~37 急いで山側に引き返すが間に合わず津波に飲み込まれてしまう |
この事故(事件)最大の謎である避難場所と避難経路の選定である
三角地帯を避難場所にしたことがそもそもの間違いではあるが
裏山の方が近いし、10mの津波であれば三角地帯より裏山の方が免れそうではある
避難経路も通常であれば小学校の校門から県道に出て左に三角地帯へ進むはずである
県道には信号も歩道もあり、2列になって効率よく避難できたはずなのだが
なぜか普段使わない民家の裏路地を1列で進んだのだろうか
これはあくまで予想だが
釜谷住民Aの証言もあるが
この15時30分あたりには
県道付近まで第1波、第2波の津波が押し寄せていたのだろう
さんざん待たせた挙句、取り返しのつかない時間となってしまった
当日の避難の最善手とは
裏山への避難は結果としては間違いでは無かったが
これはあくまでも現在も生存している我々が見た結果である。
裏山に避難すれば、必ずこの津波から逃げられたかどうか
当日避難をする立場の方々には
生存できる可能性が高かったが、これから起こることなのでわかることではない。
北海道南西沖地震の際の北海道奥尻島では
地震発生から5分後に高さ30mの津波が押し寄せ多くの犠牲者を出した。
裏山に避難してももしかすると10m以上の津波が来た可能性もあり
確実性のある避難とは言い難い。
これまでのいろいろな避難経路、避難方法を参考にすると
私としては、当日の最善手としては
スクールバスでの避難が最善手であったように思う
保護者が迎えに来た子供たち(27人ほど)は全員助かっている
避難場所の釜谷トンネルは
地元の人ならほとんどがわかっている場所
資料によると、バスの運転手も把握していたようだ
スクールバスを使わない学校近くに住んでいる子たちも助けられるし
迎えに来る保護者と行き違いになる可能性もあるが
そもそも子供の引き渡し対応が整備されていなかったため
どういった方法を選んでも
100%完璧な避難を行えることは無い
それであれば強制的に子供たちの避難を遂行するべきだった。
学校としての責任は子供の命を守ることである。
50人乗りスクールバスを使い
釜谷トンネル付近までピストン輸送2回(1.5往復)
往復15分もあれば全員避難できただろう。
ではここで、釜谷地区住人を見捨てるのかという問題だ
釜谷地区は車社会のため
住民の殆どは車を所持しているので自力で釜谷のトンネルまで避難することができる。
そして住民たちの殆どは、そもそも津波が来ることは絶対にないと思っている
正常性バイアスが働いた住民たちだ
この人たちを教員たちが説得するのは無理がある(これが避難に時間が掛かった理由でもある)
そもそも住民たちの避難まで教員たちが責任を持つ必要がない(これは裁判でも勝てる)
残念なことに正常性バイアスは教頭はじめ一部の教師(教師B)により
ほかの教師たちへも伝搬してしまったようだ
その主たる原因は教頭と釜谷区長だと思う
教頭は今後の地域との関係性を考えると仕方ない気もするが
「子供たちの命」と「地域との関係性」
どちらを重要視するかで教頭はミスを犯してしまった。
スクールバスを使わなかったことで
スクールバスの運転手と
通学手段がスクールバスの生徒たちが犠牲となってしまった。
そしてスクールバスで子供が返ってくるのを待つ家族は
避難する時間があったにも関わらず
犠牲になってしまった例もある。
リンク
東日本大震災アーカイブ宮城
https://kioku.library.pref.miyagi.jp/