大川震災伝承館

大川小学校の隣にある「大川震災伝承館」
震災前には釜谷集落の自治会館的な建物「釜谷交流会館」があった場所に立ってます。
展示内容
館内には震災に関する写真パネルや
犠牲となられた児童の遺品の展示
大川小学校周辺の街のジオラマ(この時期のみあり)がありました
また地元の震災の語り部(時には被害家族の方)のお話が聞けることもある
私が訪ねたときは、釜谷の隣の集落の方で津波でご自宅を失った方でした。


衝撃的な1枚のパネル
左:津波前の釜谷地区
右:津波後の釜谷地区
ほぼ全域が水没したのがわかります。
水の量が多く、地盤沈下し
しばらくは沼のようになってしまったそうです。

津波到達時間3時37分で止まっている教室の時計。
津波が天井近くに到達するまで
多少のタイムラグがあるため
実際の到達時間はもう少し早い可能性があるとのこと。

子供たちが休み時間に夢中で遊んだ一輪車
大川小学校のほとんどの生徒は一輪車に乗れたそうです。
館内に設置されたPCでは
現在の小学校内部の写真などを見ることができます。
大川小学校慰霊碑

伝承館前の緑の芝生の一画に慰霊碑があります
今回、大川小学校へ来る目的は慰霊碑の前でお祈りすることでした。
「それぞれの大切な人とまた巡り合えますように」合掌。
これで念願の1つが叶いました。

芝生上コンクリートで仕切られたラインは
ここに在った釜谷集落の1軒1軒の敷地の間隔を示している。
慰霊碑の場所は逃げ場所を失った子供たちの遺体が
折り重なるように見つかった場所とのこと。
逃げるべきだった裏山へ

屋外プール付近から見た裏山
グラウンドから歩いて1分のところにあります。
震災当日なぜか、この裏山には避難せず
津波から50分経過後、前回紹介した「三角地帯」へ避難
しかし、時すでに遅く、教職員・生徒の殆どが津波に襲われ帰らぬ人となった。
赤丸を付けたところに「津波到達点」の標識がある

当日地震後に校舎からグラウンドに2次避難
学年ごとに並んで待機していたそうだ
裏山へ逃げようと進言した教師や生徒がいたが
これは無視され
次の行動に50分も掛かってしまう
そしてその避難先が「裏山」ではなく
北上川すぐ横の「三角地帯」
裏山へ上る

裏山に上ってみました
「津波到達点」と書かれた看板までは斜度9度、
これは玄関等にある車いす用のスロープの10度より
緩やかな斜度となり
杖を突いたご老人や、車いすでも補助者がいれば難なく登れる傾斜だ
この裏山は他人の土地となるが
学校が借りてシイタケ栽培や休み時間に上って遊んだりしていたようだ
当日、唯一無二の逃げられる場所だったにも関わらず
避難場所の選択肢として選ばれなかったのは
大変残念に感じた。
※被害者遺族もこの点に対して裁判を起こしております
当日の避難経路

校庭側にある赤いブロック部分が自転車置き場跡地で
写真手前の伝承館側の色の違うコンクリート部分は
震災当日の避難した路地裏の道が再現されてます

一旦整理もかねて避難経路の画像を作ってみました。
50分も避難行動をせず校庭に留まったこと(画像の①)
すぐ近くの裏山へ避難しなかったこと
全校生徒100名ほどの人数が
自転車置き場の狭い隙間を通り(画像の②)
人1人がやっと通れる路地裏を歩いたそうです。
すぐ近くを県道が走っているにも関わらず
なぜそのような雑多で狭い路地裏を通ったのか(画像の③、④)
なぜ細い路地裏を使って三角地点へ避難しようとしたのか
たくさんの疑問を抱えたまま帰路につきました。
帰路

バスを待っていると
三角地帯のラベンダーに
蝶々がひらひらと止まりました。
お盆の期間は子供たちも故郷へ帰ってきています
これは子供たちからのプレゼントでしょうか。
またいつか会いましょう。
あとがき
私は広島の原爆ドーム、そして沖縄地上戦ひめゆり隊の塹壕など
尋ねたことがありますが
戦争以外でこれほど多くの児童が学校管理下で亡くなった例はありません
楽しいはずの学校が
大変悲惨で痛ましい場所となってしまいました。
小学校を震災遺構として残すのに
反対したご遺族がいるのも気持ちはわかります。
しかし大川小で起きた出来事を語り継ぐことで
亡くなられた人数以上に
これから百人、千人、いやそれ以上の人が助かる可能性があります。
みなさんぜひ1度、大川小学校を訪ねてみて下さい
そしてその話を回りの方にしてください。
それが後世に語り継ぐことになります。
あらためて、亡くなられた児童・教師、集落の方々
そしてご遺族の方へ心よりお悔やみ申し上げます。
合掌。
リンク
大川竹あかり
https://www.ookawatakeakari.jp/top
※ご遺族の方が立ち上げられた団体
震災前の写真を使って避難経路を紹介しております